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立 山 歴 史 紀 行

2005/8/8〜9  立山三山縦走(最高点〜大汝山3015m)



浄土山から雄山を眺める、鞍部に一ノ越山荘



コース
一日目;室堂バスターミナル〜浄土山〜一の越山荘(泊)
二日目;〜雄山(御来光)〜大汝山3015m〜富士の折立〜別山〜らいちょう沢〜地獄谷巡り〜みくりが池温泉入浴〜室堂
所要時間
一日目;3時間半
二日目;8時間(みくりが池温泉入浴時間含む)


立山開山
立山は大宝元年(西暦701年)、佐伯有頼によって開山されたと云う。
越中の守、佐伯有若(サエキノアリワカ)の子、有頼が16歳の時、白鷹を借りて鷹狩に出掛けたところ、鷹が空高く舞い上がり降りてこない。
有頼は、鷹を追って山深く登っていくと、熊に出くわした。
有頼は、熊に矢を放ち、傷ついた熊を追ってさらに山奥へ入り込むと、熊は岩屋へ逃げ込んだ。
有頼が岩穴へ踏み込むと、そこには阿弥陀如来が立っていた。
熊が阿弥陀如来の化身であったことを悟った有頼は、名を慈興と改めて僧となり、山に留まって立山を開山した。
ことの真偽は兎に角として、立山は古く平安の時代から、信仰の対象とされていたことは間違いない。

立山禅定
信仰登山が盛んに行なわれた江戸時代、立山禅定の拠点てある【岩峅寺】イワクラジ・【芦峅寺】アシクラジの宿坊を白装束で出立した講の一行は、称名川峡谷の断崖【悪城の壁】を見上げて背筋を寒くし、
樹木から垣間見る日本一の落差を誇る【称名の大瀑布】に驚嘆し、八郎坂の急登にあえぎあえぎ息絶え絶えに【弥陀ケ原】にたどり着く。
あるいは、材木坂を登り美女平へ出、神が宿る巨木【立山杉】を拝んで弥陀ヶ原へ出るコースを選ぶこともあっただろうか。
弥陀ヶ原は一転して広潤な高原で気持ちが和み、神仏に感謝せずにはいられない。
そして、行く手に噴煙を上げる【地獄谷】の凄惨な光景を眺めるにつけ、雄山山頂の極楽浄土に思いを馳せる。
この日は加賀藩が建立した日本最古の山小屋【室堂】で宿泊する。
夜明け前から先達に導かれて山頂に向かった一行は、山頂祠の前で御来光を迎える。
神秘的な【みくりが池】・雄山を遥拝する場所【浄土山】・修験者の行場【大日連山】・登ることの出来ない邪悪な山【剱岳】等々、これだけの役者に囲まれた山は、他所にはあるまい。
こうしてお膳立てが整い、後立山連峰から上がる神々しい日の出を、3000mの高峰山頂で拝んだ者は、己の信ずる神仏の信仰心を益々深くしたに違いない。
本来、越中地方は浄土真宗の信仰が厚い地域である。また、芦峅寺・岩峅寺は天台宗系の修験僧が始まりと云われる。
だが、雄山山頂に祀られる神仏は、神仏習合で宗派に拘ることなく須らく受け入れられていた。
仏教系の阿弥陀如来・薬師如来・不動明王、神道系のイザナギ等々、つまり何でもよっかったのだ。あらゆる神仏をひっくるめて【立山大権現】として奉ったのである。
こうして、全国津図浦々の宗派が異なる民衆に都合よく立山禅定を勧めることが可能となった。
立山大権現の思想は、明治政府による神仏分離令まで続く。

立山曼荼羅
曼荼羅とは浄土を描いた絵図のことだが、立山曼荼羅は全国に立山禅定を勧進布教するためのパンフレットとして巧みに利用された。
曼荼羅は携帯しやすいように4本の掛け軸から成り、広げて横に合わせることにより完成し、開山縁起・立山地獄・極楽浄土・登山案内の四場面で構成されていた。
岩峅寺・芦峅寺の衆徒による巧みな弁舌によって、それぞれの場面が活劇のように印象付けられ、人々は越中立山へと心を動かされていくのだった。
営業の基本的心得のような仕組みと組織ができあがっていったのである。越中売薬の原点ともなる。

加賀藩と立山信仰
江戸時代に立山・黒部地域を領有したのは、加賀藩(初代藩主ー前田利長〜利家の長男)である。
藩では、芦峅岩峅の一門を従順させるためにそれぞれに立山山域内の経済活動に特権を与えた上で、互いに競争させ、また牽制させ合った。
加賀藩独自の組織分掌に【奥山回り役】がある。今で言う、山岳警備と営林を兼ねる職務を与えられていたが、実際には芦峅岩峅両寺の衆徒へ外注していたのである。
こうして片方に独占集中することのないよう諸施策をとった事が、両地に安定した発展をもたらし、如いては立山禅定を全国に普及させる原動力となった。
表向き、藩では立山入山を規制する方策を採った。つまり、夏の短期間のみ一般登山者の入山を許可し、また女人禁制としたことである。
その一方で、藩立の山小屋を設け、また芦峅岩峅両寺の勧進布教活動を後押ししていた。
当時の登山装備を考えると、一般民衆が7月でも雪渓が残る厳しい北アルプスの3000m峰を目指すには、この規制は必要であったろう。
女人禁制についても、女性の長旅が珍しい時代、その上に当時の女性の体力衣服ではとても入山を許可するわけにはいかなかったに違いない。
天候の安定する夏の短い期間に、多くの登山者に安全に登頂を成し遂げてもらうためのやむを得ない規制であって、むしろ、加賀藩は立山禅定を推奨したのではなかろうか。

芦峅寺・岩峅寺のその後
明治政府の神仏分離政策、それにより惹き起こる廃仏毀釈によって、立山の信仰登山は変化せざるを得なかった。
山頂に祀られる神仏は、雄山神社に統一された。
しかし、地元の芦峅岩峅両寺ではその後も、日本初の山岳ガイド組合を結成するなど、山のエキスパートとしての伝統をたくましく守り抜いていく。
そして、山岳測量による精密地形図作成・鉱業・ダム工事の資材運搬等々、日本の近代化へ貢献していく。
また、クライミング技術が進歩するに連れて、彼らも登山技術の向上に努め、エベレストなどの海外遠征登山にも協力していくことになる。
現在でも、北アルプス富山側の山小屋諸施設運営に多くの芦峅岩峅両寺一門末裔が携わり、安全快適登山の普及に活躍している。


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