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丹沢ホーム
丹沢ホームは藤熊川沿いの林道を宮ヶ瀬方向へ車でヤビツ峠から15分ほど下った札掛にある。
都心から僅か2時間半で、コンビニなどはもちろん、テレビがない、携帯が通じない、渓谷とブナとモミ林に囲まれた別世界に浸るのだ。
民営の国民宿舎として経営され、宿泊客は釣り師や自然愛好者など巾広く、むしろ登山者は少ない様子だった。 特に子供たちの林間学校や森の体験学習に力をいれているようである。
戦後まもなく、栄光学園に赴任し、「天狗さん」の愛称で親しまれたハンス・シュトルテ神父が丹沢ホームを拠点として丹沢各地に生徒を引率した話は『丹沢夜話』(有隣堂出版)に詳しい。 私も続編も含めて大変面白く読みました。氏は同学園の副校長、山岳顧問を務めた。
神奈川県有数の進学男子校である栄光学園だが、天狗さんの熱意に動かされて、受験とは直接関わりのない自前の山荘をとうとう丹沢ホームの隣地に建てるに至った。 栄光学園と丹沢ホームは縁が深いようである。
オーナーの中村道也さんは丹沢自然保護協会の理事長で、丹沢ホームとフィッシングエリアを経営するかたわら、神奈川県立札掛森の家の指定管理者としての活動や、また丹沢エリアの環境保護 に関する啓蒙など、幅広く活躍していらっしゃる。

ホームの建物は東京大学名誉教授で京都駅ビルを設計した建築デザイナー原広司氏設計により1996年に落成している。 打ちっぱなしコンクリートの外観はもとより、一歩中に入るとその造りには驚かされる。全体が吹き抜けで、ホールと食堂とだだっ広い階段~それも対面して二か所も~が一体となった空間。 この大空間を尻目に客室は二階の階段状周り廊下の片側に押しやられたように配置されている。
収容人員が限られるだろうに、暖房費が大変だろうに、などと考えるのは俗人で、偉大な建築家にとってはそんな経済的・効率的ことなどは微塵も頭にないのだろう。 この空間こそが丹沢ホーム最大の誇りなのかもしれない。

打ち合わせした下山時刻より早めに迎えの車は待っていた。びしょ濡れの客を待たせない配慮なのだ。 こちらも座席を濡らしては申し訳ないので、カッパを脱ぐなど簡単に身支度して乗り込んだ。車窓からはミツマタの黄色が目に入る。今年の花は一様に遅れている。
受付を済ますと、風呂の支度が10分もすれば終わるのですぐに入るよう勧められた。まだ3時前である。我々のために普段より早い時間にお湯をため込んでくれたのだ。
体が冷え切っていた私は取りあえず備え付けのゆかたに着替え、パパさんを風呂に誘った。
「濡れたものなど整理するのでお先にどうぞ」と私に勧める。 風呂が狭いかもしれないので、ありがたく先行させてもらうことにした。
正方形の浴槽は二人が一緒に入っても余裕がある広さだった。少しぬるめだが冷えた体にはちょうどいい、湯加減にも気配りが感じられた。おかげで私は生き返った。

パパさんが風呂から上るのを待ってカンビールを開けた。たちまち空となり私はペットポトルに詰めて持参した日本酒を取り出す。
“お酒はまだ早すぎます”と制され、カンビールを追加して飲んだ。これもたちまち空になり、今度は断固としてお酒に手をつけるつもりでいたら、パパさんもお酒にあっさり手をつけた。 4時頃である。こうして酒盛りが始まり、夕食をはさんで9時頃まで続いた。
山の話題は尽きないのである。パパさんは槍穂、剱、大キレット、折立から上高地へ大縦走、等々歴戦の山男だった。 故郷が群馬県ということで、尾瀬や谷川岳にも若い頃に親しみ、スキーの経歴も長いようだ。
近頃は連続休暇が取りにくいので、もっぱら奥多摩・丹沢に通っているとのこと。低山ハイカーにすぎない私には自慢できる山歴がないので聞き役を努めることにした。

夕食は6時からである。野菜とカモの鉄板焼きがメイン料理でボリュームがある。鉄板の上に野菜を敷きその上にカモをのせる。思いのほかヘルシーで美味しいものだった。
客は他に常連らしき釣りの二組、全員で10名足らず土曜日としては寂しいくらいだろうか。隅のテーブルでは経営者家族も夕食タイムである。 この距離感がいい。我々の席の横では石油ストーブが焚かれていた。
持参した日本酒は尽きてしまい、宿でコップ酒を注文する。
明日お会いするオヤジさんの噂に話題は移っていた。
「今日オヤジさんが一緒だったらさぞや大喜びだったでしょうね」と、私
「中止したと思ってるでしょうね、行ったと知ったら悔しがるかも」パパさんが応じた。大笑いである。
オヤジさんは人が行かない危険漂う場所や、人が行かない荒れ模様の日を好むのだ。台風の最中に山に入ると血が騒ぐと云う。 どんな方か明日お会いするのが楽しみである。
部屋に戻りパパさんが持参したサントリー角をチビリチビリ飲みながら、パパさんのザックに常備されている山の小道具類をお披露目していただき、私は9時頃に寝てしまった。 雨はまだ降り続いていた。





ヨモギ平の出会い
普段から朝が早い私は夜明けに起きて、まず外を確認した。部屋からはタライゴヤ沢が見える。水量が相当多い。今日はこの沢を渡渉しなければならないので幾分不安が残った。 雨は止んでいたが雲が多い。パパさんは未だに夢の中である。
朝食は7時からで定番のノリ・タマゴ・ミソシル、それに小皿が数品、美味しい。おまけにコーヒーがつく。これもおいしい。
「今日は何所いくの?」と主人から聞かれる。
「ヨモギ平です」
「今日は増水して川渉るのが大変だな、あきらめて靴脱いでズボンまくってしまった方がいいよ」私も危惧していたところだ。
「ヨモギ尾根は結構きついよ、覚悟してね」私は下りコースとして歩いたことがあるが大変だった印象はないのだが。
「北尾根もいいよ、また来なよ、でも5月までだね」
「ヒルですか?」
「そう、今じゃ丹沢山あたりまで出るって話だよ、その時期に歩くときは気をつけて、付いたら直ぐに払ってつぶしてね、まき散らさないようにね」
今や山ヒルが山小屋の営業を圧迫しかねないようだった。

お世話になったホームの人たちにお礼し、宿を出た。私はスパッツは着けないでおいたがパパさんは着けてしまった。 森の家から河原に降り、周囲を偵察したもののタライゴヤ沢側には渡りやすい場所は見当たらない。藤熊川の上流に浅瀬があるようなので橋を渡って移動した。 ヨモギ尾根の取りつき点は両渓流の合流点にあるのだ。
其処は確かに平瀬で渡り安やすそうだったが、対岸付近の流れが速く抉れているように見えた。身のこなしの鈍い私には靴のまま渡るのは無理があると判断したのだが。
パパさんは身のこなしに自信があったのだろう、靴もスパッツも完全に締めていたので外すのが面倒なこともあったのだろう、そのまま渡ってしまった。 あと少し、最後の急流を避けるため飛び石に乗った。途端にツルッ・スッテン・バシャッ!!昨日に続いて今日もズブ濡れとなってしまったパパさん。

ヨモギ尾根は宿の主人の話の通り、登りが連続する苦しい道だった。だが尾根の一本道なのでバリェーションルートとは云え迷いようもなく、その点では不安のないコースだった。
やがて傾斜が緩むと970mのヨモギ平が近い。9:10~9:30まで滞在する予定とオヤジさんには伝えてある。その9:30を経過しようとしていた。 こちらが遅れているとことを知らないオヤジさんは先に行ってしまう恐れがある。そうなると我々は追いつけない。
我々はヨモギ平を見渡す手前の高台にきていた。その時BOSCOキャンプ場方面から登山者が一人上がってくるのが見えた。 近づくのを立ち止まり見ていると、登山者は竹ストックを使用していた。そして首にタオルを巻いていた。
「おーい、おーい、こんにちは!」
「やッ、やあー、おそいじゃない!」気がついた登山者はこちらを見上げ盛んに竹のストックを振りながら叫んだ。オヤジさんだ!! 我々は小走りに降り、三人全く同時にヨモギ平に到着したのだった。

3人お互いに本名を名乗り合うのはこの時が始めてである。
「遅かったですねぇ、もしここで会えなければ先を急ぐつもりでしたよ」
「申し訳ない、実は私が渡渉に失敗して時間を喰いました」
オヤジさん、私のイメージより大分若い印象を受けた。ストレートにその印象を伝えると
「よく云われますがガキッぽいだけです」その後パパさんと同年輩と知った。
私が掲示板の書き込みから想像していた破天荒なオヤジさんとは違った、穏やかな雰囲気の別人が目の前にいた。
「道場で鍛練されているようですが剣道ですか柔道ですか?」
「空手です」やはりそうだったのか。そうではないかと想像していたところだった。一同会えた喜び、各自の紹介が終わったところで
「始発バスで蓑毛から歩き始め、ヤビツから沢沿いに下る際膝を悪化させてしまいました。皆さんに会えただけで充分です、かまわず先へ行ってください」とオヤジさん。
最近オヤジさんの膝が悪いことはこちらも承知していた。すかさずパパさんが
「三ノ塔まで一緒に行きましょう、numataさんがペースを作りますから」続いて私も、
「せっかくお会いして大倉まで一緒に行きましょう、そして一杯やって帰りましょうよ」
パパさんと私は1泊し既に親しい間柄、その中でオヤジさんは遠慮もあっただろう。だが二人の誘いには嬉しそうだった。私が先頭に立って出発した。 パパさん、オヤジさんともに健脚で自分よりも大分ペースが速いのだ。それでも私の遅いペースに合わせて、のんびり付いてきてくれた。オヤジさん、膝は大丈夫そうに見えた。

ヨモギ平からの道は三ノ塔山頂の西端、お地蔵さんの裏側に出る。ちょうどその時にガスが切れて表尾根全容を見渡すことができた。 山頂に移動した時は再びガスが周囲を包んでしまった。
長~い三ノ塔尾根を私のペースでゆっくり下る。年配の女性グループにまで抜かれてしまった。
パパさん・オヤジさん、こんなゆっくりペースの私に最後まで合わせてくれた。
「パパさん、大倉で一杯やるにはどこがいいですか」パパさんは下山場所で必ずビールを飲むのである。 「蕎麦屋のさか間、つまみの種類少ないですが大倉屋、カンビールで一杯ならどんぐりハウス、さか間のソバは旨いですが少々高いです」スラスラと答えが出る。いずれも私の想いに嵌らない。
「渋沢まで出てしまったらどうでしょう」
「登山者が立ち寄る店があるはずですが、思い出せません」私も雑誌かなんかでそのような店があるのを見た記憶がある。そこに行ってみたい気がした。
大倉には行楽客が大勢いた。ソバ屋は外まで行列ができていた。やはり渋沢へ出ることにしたのだった。

バスのドライバーに立ち寄り飲み屋を聞いてみたが知らない様子だった。パパさんが以前に見た記憶を頼りに駅の北側の細い道を覘くと、食堂と書かれた看板が目に入り暖簾がかかっている。
予感がして行ってみると、“いろは食堂”とある。たちまち記憶が蘇ったパパさん、中をのぞくとテーブルが貸切のようにセットされていた。 がっかりしながらも、おかみさんに確認すると、“3人ならどうぞ”と、奥の個室へ案内された。壁には登山グループなどの写真が雑然と貼ってある。客が勝手に貼っていくのだそうだ。
生ビールを注文し、“料理はおまかせでいいですか”と云う。忙しそうだったのでその通りにお願いした。
タラの芽・ウドのてんぷら、たけのこのさしみ、大山豆腐、アジのたたきが適量出されてどれも美味しいものだった。期待以上である。 ビールを飲み干しおかみさんお勧めの地酒【丹沢のひやおろし】四合ビンを注文した。

【ギリギリのビリビリに感じる山歩きを一人でやってるんだと】
【山は(海もですけど)怖いですよね。自然の恐怖、病の恐怖 街の中恐怖 死はいつでもひと呼吸の先】
【武の道は断崖をよじ登るが如し・停滞も後退も死あるのみ! ただ在るは、前へ進むが生きる道なり】
【やっぱり台風!!!でしょう。!!台風興奮!本当に台風時、山の稜線の小屋に泊まってらっしゃる方達は幸せ者だなあと思います!】
【命の一歩 は所詮 蟻の一歩】
以上はオヤジさん語録の抜粋である。口が大分滑らかになったところで、オヤジさんの山と空手への想いを語ってもらった。
「空手の本質は自分の身を守る為の技を磨くことです。つまり護身術です。それが最近では試合に勝つことが目的になってしまい、ルールに違反しない限りどんな手を使っても相手を倒せばいいんだといった風潮がひろまっています。 これは邪道です。たまに道場で若者に教えるとき、むきになって向ってきます。どうもいい傾向とは云えないですね」
「自分の身を守るということは、なにから身を守るかという問題です。もちろん暴漢から身を守る、つまり相手は人を対象としていますが、身を守るという意味では自然も対象となると思うのです。 自然から身を守る、台風・地震などの災害はその最たるものです。自然から身を守る能力を磨くにはどうすればいいか? 危険がいっぱいの山へ入ることが一番の訓練になると自分は考えました。 その為には普通の登山道を歩いているだけではダメで、道なき道を五感を研ぎ澄まして行く。悪天候の山は尚いいです。危険がいっぱいですから」
「そういった意味で登山は空手の鍛錬でもあるわけです」
「“蟻の一歩は命の一歩”と私はよく云います。山へ行くと2~3万歩は平気で歩きます。3万歩全てに緊張できますか?必ず数十から数百歩は気が緩んでいます。その時事故は起こります。 数万分の1の気の緩みが事故の元、つまり命の元ということです。蟻の一歩こそ命の元です。その危険を回避するために日頃から山に入り五感を研ぎ澄ます訓練を積むのです」

さて、皆様どうでしょうか。妙に説得力がありませんか。
もっとも私個人的には、オヤジさんが厳しい条件の山を好むのは修験のためだけでなく、多分に趣味的な要素が含まれているのではと思うのですが。
「numataさん、二日間疲れただけでしょう?」オヤジさん、最後に私に云いました。
いえとんでもない、大変充実し、そして大変楽しい二日間でした。
オヤジさん、パパさん、どうもありがとう!!

あすかパパさんは2015年11月21日に病気でお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。
とても寂しいです。

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