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小金沢連嶺縦走2


ハマイバ丸付近にて撮影


小金沢連嶺縦走

天狗棚のピークから、これから行く先々の峰を眺めて落胆した私だが、不安に陥ったわけではない。
この時点で予定より30分繰り上がっていたので、たとえこの先時間を食うことになっても夕暮れまでには湯ノ沢峠の避難小屋に辿り付ける、との見通しを持ったからである。
冷静に判断して気を取り直し、先へ進んだ。
狼平と呼ばれる開放的な草原から小金沢山への登りに入る。
道は一変して悪くなる。そのうえ長い。
天然樹林が鬱蒼と茂り、その根張りや苔むした岩でトレースが付かないので、道が判然としない。また倒木が多い。
踏み跡を探す為に下方ばかり見て歩くとかえって道を外してしまう。
私は、等間隔で木に赤テープが巻かれていることに気が付いてからは、下ではなくて前方を注視し、赤テープを追いかけることによって不安なく進むことができるようになった。
石丸峠から山頂まで90分を費やした。登山地図の標準タイムは70分なので、大幅に超過してしっまった。今回標準タイムを超過したのはこの区間だけであった。
また、この間の地形図上の高低差は約100mであるが、その倍は登った気がした。

小金沢山頂は、山と高原地図付録のガイドによると、展望のない地味なピークである、と記されているが、現在では最高峰に相応しい好展望の山頂である。
視界の利かない樹林帯から山頂へ飛び出した瞬間は感動さえ覚えた。
富士山、南アルプス、秩父山塊、八ヶ岳、そしてこれから行く黒岳とその隣の雁ガ腹摺山が大きい。また、このコースでは珍しく奥多摩側も見渡すことができた。
一人大展望を独占し、なお山頂を去り難く、とうとう預金した30分を使い果たし、予定時刻の13:40にようやく山頂を後にした。

小金沢山から先は不安のないはっきりした道となる。標識も良く整備されている。
牛奥ノ雁ガ腹摺山1994mへは、緩やかな上り下りを繰り返しながら進む。周囲は比較的疎林となり、梢の間から展望も得られ理想的縦走路である。これこそ私のイメージした通りだ。
山頂へは、小金沢山から40分で着いた。南側及び西側が開け、相変わらず富士が素晴らしい。
牛奥ノ雁ガ腹摺山から一旦降下し、最低鞍部に出る。右に水場の標識が出ていたが、水場までの時間と距離が不明で、汲みに行きたいのはヤマヤマだが断念した。
これ以上登りを増やすのはもう沢山だ。大分疲れてきた。水は底をつきそうだがまだ紅茶のペットポトルが残っている。
黒岳1987mを15:40に通過。予定通りの時刻だ。
山頂は樹木に囲まれた寂しい雰囲気の場所である。
黒岳への登りはつらかった。累積高低差は1500mを超えた。足が揚らず、重いザックで肩も痛い。
この先は気分転換にイヤホーンラジオを聞きながら歩いた。感度は良好であった。
樹海を抜けると白谷ケ丸(シロヤンガマル)である。好展望のピーク。さらに下は広々とした美しい白砂の園地である。長かった本日の行程もあと僅か。最後の休憩をゆったりとここで過ごした。
だが不安が一つ、ガイドブックによる湯ノ沢峠の目印である電波塔がない。電波塔は最近撤去されたことを私は知らなかった。


湯ノ沢峠避難小屋にて~その1

避難小屋は、湯ノ沢峠から少し右に降りた場所にポツンと建っていた。ログハウス風の古い小さな建物である。周囲は林で展望はない。外には腰掛テーブルなどの休憩施設もない。裏手の林奥が焼山沢林道終点で、車10台分の駐車スペースがあった。
小屋の中は12畳の広さで、そのうち4畳分が土間で小さな机が置かれていた。残り8畳分はカギ形の板敷きである。一人づつ布団を敷いて寝れるのは6人までか。古い布団毛布が5~6人分備蓄されている。
そして山奥の避難小屋では珍しく電気が引かれていて、蛍光灯が付いている。
小屋には中年男性二人連れ一組が先着していた。避難小屋着16:30。
私は、挨拶を交わし荷を降ろし、直ぐに水場へ降りた。急いだ理由はビール・日本酒を冷やす為だ。
水場は小屋から2分である。水流は細いが、湧き出し直後の水で冷たく旨い。
私は、小屋へ戻り自分の寝場所を整えて、先着組に遠慮して外で一人夕食の支度をした。ビールは僅かな時間でしっかりと冷えていた。
レトロカレーの食事を終えてしばらく一人で酒を飲んでいたが、この山域は何処でも羽虫が煩くまといつく。そろそろいいだろうと小屋に戻った。
彼らは車で上がって来たので、飲食材料が豊富でまだ宴会中だった。
彼らは私が暫く席を外したことに好感を持ったようで、また追い出したような負い目も抱いたのだろう、たちまち3人で宴会が始まった。
彼らから、この周辺の山のこと、樹木や花のこと、大和村のこと、甲斐武田家のこと、近頃の登山客の習性気質、等々とても書ききれない貴重な話を聞くことができた。
私は、彼らが地元の人で小屋を守っているボランティアに違いないと思い込んだのは当然である。
ひとしきりして、
「皆様のおかげで、私ども登山者は本当に助かります、ありがとうございます」と私は云った。
お世辞半分で白々しい気もするが、地元の人に敬意を表したつもりだった。
「ハハハ、そう思うでしょ、私たちも登山者です、千葉の習志野から来ました」
「えっ!」
「この小屋は村営ですが、村では忘れ去られています、電気代を自動的に払っているだけです」
詳しく聞くと、この小屋を拠点に活動する常連のグループが自然に出来上がり、彼等は小屋を別荘代わりに使用しているらしいのだ。
中には専用の炊事用品を隠れ場所に保管している人もいるらしい。
私はこのように小屋を私物化した利用法について非難するつもりはない。
都会で疲れた人々のオアシスとして、時には逃げ場として、この小屋が大いに役立っているのである。独占しているなら問題だが、そうではないので結構なことだ。まして彼等は、村に代わって布団を入れ替え、蛍光灯を交換し、床壁を拭き、周囲のゴミを除去し、以前にはトイレの管理まで行なっていたのだ。
なお、現在トイレは土地所有者である県のクレームによって取り壊されている。
誤作動が多いセンサーによって、とんでもない時間に点滅していた蛍光灯を、手動のスイッチに切り替えたのも彼らである。
ガイドブックには、小屋は清潔に使用されている、と記されているが、このグループが掃除していたのだった。
こうして湯ノ沢峠避難小屋愛好家たちは、此処に通いつめ、この地を愛し、地元の人よりも地元に詳しくなっていったのだった。
私は、むしろ親しみを覚えた。


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