山野紀行HOME 宮ヶ瀬ダムの南側に清川村と愛川町の境界を形成する東丹沢の前衛的な細長い山塊がある。下流側から華厳山〜経ヶ岳〜仏果山と続く山なみで、さらに北へ高取山から宮ヶ瀬ダムへと下る。 今回はその中の代表格、経ヶ岳631m〜仏果山747mを歩いた。関東ふれあいの道に指定されたハイキングコースで、標識や休憩ベンチも多くよく整備された道は不安なく歩くことができるが、仏果山南面の岩稜はヤセた尾根で慎重さが求められる。 本コースは海抜が100m足らずの地点から登り始め、経ヶ岳まで一気に500m以上登り、そのうえ半原越から先のアップダウンは相当なもので、累積高低差は1000m近くに達し、低山ながら変化に富んだ縦走路はけっしてあなどることはできない。 最も土山峠やダム湖畔の清川村側に登山口を取れば、登山口の標高が高い為に幾分楽なコースとなる。 今回私は余裕があれば宮ヶ瀬ダムまで足を延ばすつもりだったが結構疲れてしまい、仏果山山頂から半原へ下った。 アクセスは、本厚木から1時間に3本程度半原行きバスの便があり、また小田急主要駅で宮ヶ瀬ダムハイキングキップを購入すると割安になる。 コース&タイム; 本厚木駅北口(神奈中バス)=8:25半僧坊(参詣)8:40〜10:10経ヶ岳10:30〜半原越10:50〜12:10仏果山 仏果山(昼食休憩)13:00〜14:20半原(バス)=本厚木 所要時間;5時間40分、歩行時間;4時間30分 ハイキング起点は半僧坊。曹洞宗勝楽寺の別名で、地元地域では地名と一体化して【田代の半僧坊さん】と呼び親しまれているようだ。 私はその山門を通りすがりに眺めて、参詣せずにはいられなくなった。150年ほど前に21年の歳月を費やして建立された云う山門は高さが16mもあって、なかなか荘厳である。 縁起によると、草創は古く弘法大師が法華経を書き写した霊場と伝えられる。もとは真言宗に属し「法華林」の名があり、のちに常楽寺、さらに勝楽寺と変わった。 境内には半僧坊の謂れ、遠州奥山法広寺からの勧請した半僧坊大権現の仏閣があって、本堂と回廊で繋がった伽藍造りとなっている。その手前には立派な鐘楼があった。 その半僧坊では、毎年4月17日には近郷近在の花嫁が参拝したことから「花嫁まつり」ともいわれる珍しい祭例があり、植木市とともに賑わうと云う。 登山口は国道を少し戻り勝楽寺墓所入口の大きな看板がある場所を右に下った分岐点にあり、関東ふれあいの道を示す標識がある。道は沢沿いに付けられた砂防堰堤工事用に開かれた林道で、砂防ダムの上部から山道となる。 この砂防ダムは中央部に切れ目があり常時通水を確保したスリット型ダムだが、その異様な過剰規模に驚かされ、土木事業に巨費を投じる我が国公共事業の現実を目の当たりにした思いだった。 道はこの小沢源頭を南に越して支尾根を登る。急な場所は少ないが登りの連続である。中津川流域の眺めがよいベンチのある休憩場所を過ぎ、半原越から延びる林道を横切り、さらに少し登ると稜線へ立つ。 その稜線北側にそびえる536m峰手前を南へ折れ、植林に囲まれた稜線の緩やかな上り傾斜を進み、華厳山への分岐を左に見送って一登りで経ヶ岳山頂に着いた。 稜線上の梢越しからは、先ほど横断した林道が大分下方の山腹に一筋の白線として延び、その奥には仏果山の稜線が北へ盛り上がり、ひときわ高く尖ったピークで視点が止まる。私はそこが仏果山だろうと想像したが、コースタイムから類推すると近すぎる。 結局そのピークは仏果山へ至る尾根上の革籠石山(かわごいしやま)640mで、経ヶ岳への稜線途上から仏果山は見えないようだった。 経ヶ岳山頂はそれほど広くはないが、ベンチ・テーブルが二組置かれ、西側が開けて丹沢主脈の眺めが素晴らしい。私には随分好ましい場所に感じられ、ミカンを口にしながら眺めを独占した。 仏果山へは一旦150mも下らなければならない。縦走登山につきものとは云え、苦労して稼いだ高度を下げるのは、いつもながら“もったいないなぁ”と悔しく思う。 山頂を下ると直ぐに大岩が登山道を遮えぎっていた。“弘法大師が経を収めたところから経石と呼ばれている”との謂れを示した看板が、岩の裏側に登ってくる登山者に向けて立てられていた。どうやら経ヶ岳登山は半原越から上り半僧坊へ下るのが一般的なようだ。 一旦傾斜が緩むと丹沢方面の展望地があり、再び急降下して林道に降り立つ。其処は半原越と呼ばれる峠状の鞍部で、車道が通じている。其処に駐車して経ケ岳を往復すると最短コースとなるようだ。 林道を横断して仏果山へ向かう。 この山域一帯はその山名からも窺われるように嘗ての修験道で、修験者の信仰のよりどころとなったのが八菅山の八菅神社(ハスゲジンジャ)である。現在でもその名残として、山伏による火渡護摩修法の祭例が取り行われている。 密教系の山岳修験者は、より嶮しい山岳ルートを辿ることが修行の原点と考えるので、今でこそよく整備された道だが、仏果山へ至る尾根はかつての修験道だけのことはあり、なかなか嶮しい。 稜線上の峰々を5〜6ヶ所も乗り越えて、最後の詰めは痩せた岩稜である。 中間点の独立峰的なピークは標高640mの革籠石山(かわごいしやま)で、近年この奇妙な山名が付けられたようだ。その山頂からは相模平野の眺めが良い。 革籠石山からは砕石場の上部を通過し、梢の隙間から宮ヶ瀬ダム湖を眺めて痩せ尾根を通り、最後に岩稜の鎖場(ロープ)を攀じ上がり山頂に着いた。 仏果山の山頂は雑然としていた。絶頂点がはっきりしない。高さ13mの鉄骨製展望台が山頂の一角に建てられていて、その周りを囲むようにテーブルが設置され、あたかも展望台が絶頂点のように錯覚するからのようだった。 山頂は雑木に遮られ視界は悪いが、展望台へ上ると360度の素晴らしい展望が待っていた。宮ヶ瀬ダム湖と丹沢の山並・相模平野から都心まで、そして北側には高尾山が案外近くに望めた。 下山は半原へ向かう。 宮ヶ瀬ダムへ下山する場合は、ダム堤体上部から下部まで約120mをエレベーターで降りてしまうので楽のように思えるが、高取山への上り返しがあることや車道歩きが長いことなどで、小一時間ほど行程が伸びそうである。 また、宮ヶ瀬越から仏果山登山口へ降りるのが最も楽だが、バスの本数が少ないうえに以前に歩いたことがあるので避けた。 よく整備された関東ふれあいの道を下る。送電線の下を通り、林道を横切り、ダムへの取りつき道路の下を抜けて、指導標識に導かれて山里へ降りてきた。道は小川に沿ってダラダラと下る。 この小川は“ホタルの里”としてホタルの育成に力を入れているようだ。 バイパス道路を潜り二股を小川沿いに真っすぐ下ると撚糸組合前のバス停に向かうようだが、標識は左を差していたので私は標識に従い入り組んだ狭い道を半原へ向かった。 半原の里は山村の寂しい集落を想像していたが、落ち着いた古い街並みが続き、温かさを感じさせる小さな美しい市街地を形成していた。バス停近くの掘割には、澄みきった流れにコイ・ニジマス・ハヤが無数群れていた。 半原は撚糸の町。その歴史は文化文政の時代まで遡り、戦後になって全国の絹縫糸の生産量の80%を占めるに至ったと云う。 電動機械が普及する前は、八丁式と呼ばれる水車を動力源とした撚糸機械が活躍し、嘗てこれらの掘割には中津川から引かれた水で回る水車が其処かしこで見られたに違いない。 現在では、主力製品の絹・合繊縫糸をはじめ、各種繊維による織物・繊維製品・ニット用撚糸、産業資材用撚糸、等々が生産されている。半原は江戸の昔から豊かだったのだ。 半原バス停は中津川のすぐ脇にあり、神奈中バスのミニターミナルとなっていて、本厚木行きの他に淵野辺、三ヶ木、町内循環バスが発着している。 待ち時間が長い際は、向かい側に酒屋がありビールにありつくことができる。公衆トイレも近くにある。 私は待合場所のベンチに腰かけ、カンコーヒーをのんびりと飲みながら一人バスを待った。 待機場所に駐車していた本厚木行きバスは、乗降場所に立ち寄らずにいきなり発車してしまった。あわてて県道に飛び出した私はバスを止めて何とか乗り込むことができた。 |