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 1993年の晩秋の休日、西丹沢の大室山1588mを家内と2人で登った時のことである。
登頂を果たし、犬越路から日蔭沢橋へ下る途中で、何の変哲もない場所で私は沢に転落してしまった。
もちろん大してケガをしたわけでもないが、それから10年過ぎた今でも、岩場のヤセ尾根やザレ場の崖際などを通過する際に、ここで転落したらどうなるだろうなどと、妄想することが常である。
恐怖に取り付かれてしまい足が前に出ないなどという程ではないが、その時以来そのような場所の通過には、殊更に慎重となってしまったことは確かである。転落の記憶が脳裏に深く刻まれてしまったようである。
当日の行程は、道志川支流の神ノ川日蔭沢橋付近に駐車し、日蔭沢沿いの登山道を辿り犬越路経由で山頂を往復するプランであった。
高低差で約1000m,歩行時間で5時間半といった中級コースで、もちろん岩場などの危険個所もない道も明瞭な一般登山コースである。
当時の私は、仕事の都合などで休日がつぶれてしまうことも多々有り、運動といえばたまに行くゴルフぐらいで、当然運動不足が日常化していた。また、夜の酒席も続いていたのである。
このような状況下の自分にとっては、大室山登山は無謀に近いものであったのだろうか、登りは休み休みあえぎながら何とか山頂にたどり着いたが、下りで足にきてしまった。
犬越路に下り着いた頃には完全にヒザが笑い出していた。
しかし、ここまでくれば残すところ下り一方の1時間足らずの道のりであり、しかも夕暮れ迄にはまだ時間の余裕もあり、多少安心してしまった面があった。
犬連れの登山者とすれ違った際などは、今からでは暗くなってしまうのに、などと他人の心配をするほどで、余裕がでてきたと勘違いし、油断したのであろう。
ピョコタン歩きになりつつも、沢を半分ほど下ったあたりで突然転落してしまった。

 ここで、転落と滑落の違いについて自分なりの見解を記しておく。
転落は文字通り斜面を転げ落ち、滑落はうつ伏せのまま(まれに仰向けのまま)斜面をズリ落ちる様で、それでは橋の上から、あるいは垂直の岩壁を落下した状況はなんと言うか? これを墜落と言う。
大して違いはないようであるが、当事者にとっては大変な差がある。
つまり自力対処〜たとえ無駄なアガキになろうとも〜が残されているかどうか、最後の希望があるかないかの大きな差であり、その方法の違いの差でもある。
墜落の場合は最早なすすべなし。

 転落したきっかけが解らない、思い出せないのである。躓いた覚えもないし、足を崖側に踏みはずした覚えもない。転んだ記憶さえない。気付いた時は転落している最中であった。
家内はどうしていたか? 歩みの遅い私を見限り、姿が見えない辺りまで先行していたのである。
幸い、潅木に引っ掛かり転落は終わった。その後に自力で攀じあがった感覚では、地上から三階の屋根くらいの高さ〜10mほど転落したようである。
転落している時間は僅か数秒であったろうが、随分と長く感じられ、その間、様々な思いが駆け巡った。滑落・転落の体験談で、僅か数秒の間に自分の半生がグルグルと駆け巡る、というようなことがよく言われるが、さもあらんと思った。
転落を止める行動を転落中に実行できたか? 否である。
もちろんなんとかしなければ、という意思は働いたが、転がっている間は当然手足も体と一体で動き、物を掴むという簡単な動作が思うように出来なかった。前転と横転が交互にかなりの速さで連続し、体の動きが複雑な転がり方をしていたのである。
ザックは日帰り用の小さな物でツッカエの役はしなかった。結局は自力で回転を止めることはできなかった。
 さて、転落が止まった時、まずはヤレヤレ助かったと思った。そしてすぐに潅木をしっかりと握り、足場を確保し姿勢を安定させた。次に周囲を確認した。谷底まではまだまだ落下距離の3倍ほどあり、再度転落したらたまらない。比較的落ち着いていたのである。

オーイ、オーイと二回大声で呼んだ。家内が戻ってきて、上から覗き込んでいるのが見えた。再度声をかけた。気がついた。なんと、その瞬間彼女の顔が笑ったのである。心底可笑しそうに。
アンタそんなとこで何してるの、いい歳こいて! とアザ笑っているように見えた。大丈夫!の一言もなかった。仕方ないので、手足を動かしてみて不都合がないことを確認し、自力で這い上がることにした。必死だったので再落下の恐怖は感じなかった。
何とか這い上がることが出来たので、斜度は55度前後かと思う。
家内は‘笑ってなどいない、呆然としていただけだ’と言う。確かに茫然自失の際は顔がひきつり、笑い顔に見えることもあろう。しかし、それ以上追求はしなかったが、あの時の顔はほんとうにひきつった表情であったか、今でも疑問に思っている。     
       2003/12 記

no.3 三浦七福神へ , no.2 転落(日蔭沢〜大室山), no.1 森戸川散策へ