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  2002/06/18~20
   

1. 沖 縄 戦
1945/4/1沖縄北谷・読谷地区に米軍上陸、当時国内有数の人口密集地域であった沖縄中南部は、 多くの民間人が米軍のみならず味方軍からさえじゃまもの扱いされ、逃げ場を失い 南部海岸に追い詰められ自決した。
沖縄戦での犠牲者は実に23万人。現在も遺骨収集が続けられている。
6月23日は犠牲者の霊を慰める'慰霊の日'である。この日、軍司令官の牛島中将が自決し軍は壊滅した。
米軍は上陸占拠した地域に恒久的に基地を設けることを念頭において、上陸場所を選定した。 今の嘉手納基地である。用地は強制的に収容され、未だに返還されていない。

    
        平和祈念公園                  平和の礎 23万有余の名が刻まれ毎年多数が加わる

2. ひめゆり隊
沖縄第一師範学校女子部及び沖縄第一高等女学校の上級生は南風原(ハエバル)陸軍病院に徴用され、直に手不足となり全校生徒におよんだ。
5月25日、自軍敗退により病院は撤収され南部地域の塹壕に分散退去し、ひめゆり隊も分散従軍した。その際、重症者は毒ミルクにより虐殺された。
第三外科とよばれる壕に従軍したひめゆり隊は、6月18日、軍玉砕による学徒解散命令の伝達が遅れ、 米軍によるガス弾攻撃により多数の犠牲者をだした。ひめゆりの塔がある場所である。
米軍は自軍司令官バッグナー中将が戦死したことにより、降伏した者を除き民間人の区別なく報復を加えた。
戦後被災を免れた女学生の多くは教師となり、定年後同窓生でひめゆり資料館を創設し、今なお訪れた人々に体験を語っている。

      
  ひめゆりの塔 手前に深い壕がある             那覇空港に降りる戦闘機 この後パラシュートで減速する

3. 基 地
日本国土内米軍管理地の75%は沖縄にあり、県土の11%を米軍が使用している。 那覇空港の管制権は未だに米軍にあり、使用空域の優先順位は米軍・自衛隊・民間の順である。那覇空港へ降り立つと、そこは異国の空港の雰囲気が強く感じられる。
現在でも那覇空港の離着陸の許可は米軍管制官が行っている。

4. 琉球王国
琉球は15世紀に尚巴志によって統一され、1609年に幕藩体制の下、島津藩の配下に組み込まれるが 異国扱いで、王国を維持し中国・朝鮮の影響を強く受けながら独自の文化圏を形成し、明治政府により 統合されるまで500年に亘り、中国・朝鮮・日本との交易により栄えたのである。
その後1945年、敗戦によりアメリカの直接統治の下に置かれ、1972年本土復帰をはたした。 ちょうど今年(平成14年)が復帰30周年にあたる。
琉球王国は平和を好み、武装しなかったが為にかえって中国の植民地化を免れたようである。

5. 首里城
首里城骨格は18世紀に建立されたと思われるが、はっきりしない。15世紀にすでに琉球王国の都は首里に 置かれていたと考えられている。
首里城建造物は沖縄戦により壊滅し(軍司令部が首里城に置かれていた為に激しい爆撃に曝された)、 現在のものは戦後再建されたものである。
世界遺産に登録されているものは建物でなく、その石垣である。

  
首里城とその石垣

6. 琉球舞踊
首里城公園で偶然に琉球舞踊の公演が行われていて、観覧する機会を得ることができた。 動きのやわらかい実に優美な表現で独特の音階と融合し、観る者を魅了させる。衣装も素晴らしい。 地元TVもビデオ撮りしていました。



7. くらし
沖縄の人々は歌い、踊り、飲み食し、そして苦難・怒りを心の奥深くしまいこみ、あくまでも陽気に、前向きに生活している。
沖縄の人にとって最も敵対心があるに違いないと思われた基地勤務の米人とも隣人として付き合い、様々な国籍の子供達が様々な言語で一緒になって遊んでいる光景が普通にみられる。
小さな島々の地域住民が、実は日本中で一番おおらかな大陸のくらしをしていたのである。
那覇市の国際通りには、たくさんの飲食店が連なり、観光客相手でなく、地元の人々がゴーヤチャンプルをつまみにオリオンBEERを、そして泡盛を飲み、日が変わるまで陽気に歌い続けるのであります。


那覇市中心街

8. リゾート
沖縄は日本においては唯一の温暖な海洋リゾート地域であり、海外のグァム・ハワイに比較しても立地条件が劣るとは到底思えないが、人気において負けてしまうのは何故か。
沖縄の人々には同邦人から儲けようという気持ちが、さらさらないことに由来している気がする。

    
名護市のビーチ                         本部リゾートの夜景

2002.06.30

no.3 冬の白川郷から日本海へ , no.2 沖縄レポート no.1 最果ての北の島へ